内部の世界に拘泥しすぎたようだ、内部世界に関係を取り結ぶとき私たちはここに解放を観ていくことは現代にあって上記のように相当の困難を伴う。此れに対して外の世界に対して特に表現されたものに対してどの様な関係を私たちは持つのだろうか。今のところ本質的には二つの方法(実体的には一つになりうるが)しか用意されてはいない。一つが<物語>を媒介にして被表現物に対蹠する方法、後一つが<直接性による媒介方法>である。前者は旧来からの感情移入や意味を其処に探求する方法であり、其の背景を探り当てる方向でもありうる。研究者、学者たちの多くはこの方法を採っている。しかしながら「現代」に於いてこの方途だけが総てではない。
 デュシャンの便器に拠る芸術に対する視線議論、ケージの音楽の音・ノイズへの開放、ベケットの非演劇の演劇、終わり無き演劇以後、直接性による媒介による対処方法が、発見・開発されたと考えるほうが私たちの現代として抱える世界に似付かわしく思える。<音>ノイズに意味を求めても物語にはなり得無い、既成生産物の便器に表現を求めても便器の物語は語れても<表現>の意義は見いだせ無い、終わりある形式の演劇に終局を迎えることの出来ないゴドーを待っていても終わりが無い。物語による媒介方法によるとき彼らを非難こそできても止揚する方途は閉塞されたままだ。なぜなら彼らは物語を棄てたからである。彼ら以後の現代芸術を語るとき、直接性による媒介方法にも立脚することを厭う批評の仕方は無効とされる可能性が極めて高い。そして新たなベクトルで<物語>が構成的になっていくのかもしれない。<直接性による媒介批評と表現>は私たちを何処に連れていくのだろうか。それは関係による解放であろう、論理的破綻を内蔵したままに。

 感性が直接に世界と結びつくには、現状の世界に対する一体性の内容的破壊と新たなベクトル的観念による感性の一体性の確保を要求する。感性は其処において非存在でありながら確たる異空を感性的にも支配しなければならない。新たなベクトル的観念、ここでは単なる小石を<鉱物>mineralとして視ること、この眺める方途に、遠近法に、何も視えてこない感性は、現状の物語の言質に取られた感性というしかない。<鉱物>mineralの視点と感性が無いとき、反応は物語に寄り添って視線を持ち込み考えられてしまうだろう。私たちは<鉱物>に対して今ある物語を書き込んではならない、此れに共有する感性的視点、<共同観念>の浄化が飛び切り必要なのだ。マンディアルグの「大理石」が究極的に物語を超克するに鉱物的であるように、写真も鉱物的な視線に開放された手腕が被写界深度に於いて搦め捕られ直接に解放される。写真にあってもこの物語を剥奪されることがされなくてはならない。
 物語が存在しない不安定な視覚に安定を求めずそのまま放棄しておくことは、より多く感じることであり、より多くの論理的破綻をこちら側が引き受ける切っ掛けでもある。<鉱物>と言う新たなベクトルを持つことに拠って此れがなされる可能性が感性的に開かれている。
 即物的に存在する小石を<鉱物>mineralとして観ること。<鉱物>の存在様式を観るとき異空の物語が開始される。この異空の物語はアナキズムそのものであり、無軌道極まりない動きを示すだろう。この物語の認識構造は外部に反り返せばその程度に応じて、内部的であるような酷く、快適で充分にキッチュな結晶を緊張感に於いて問うかもしれない。なぜなら解き放たれた感性とは定義できない錯乱であり、崩壊された内容であり、表現系にのみに許された豊潤な屈折であってよいからである。そこには関係のフレームアップが正統であることもありうるのである。
 宙に浮いたかのような貝の有り様から点在する生き物としての、<鉱物>どもの賑やかさに会話があるように受け止められて愉快になる。そしてスリルある緊張感とは遠いが、不意に波がぼかされる。波打ち際の物語がミネラル状に、日の光を避けている。日の光をまともに受けず逃げていく波の穂が白に光が砕けて、ミネラルの白が描画される。砕け散る波が白々しく鉱物を嘲笑して、光の中に、海岸の粒状たる<鉱物>に於いて吸収自転していく。さしずめは尾を引く砂上の幾多の彗星に倣って。彼ら彗星は何故尾を引くのだろう。なぜなら太陽は無限に焼き尽くす<屍>の換喩だからである。その中に、<鉱物>は泰然自若として毅然とした態度を採っているように私には思える。
 安定の素質としてまた素材として<鉱物>的であること。内実のみに凝縮した、充填された即物であること。この総てにおいて急降下するままの美の中心であること。不意打ちを満足させない凝縮の点在。一切の精神性を拒否する屹立である倫理。<青>に対抗する色のない鉱物色の象嵌。明らかに犯される白昼の関係としての蠢き。存在するに喜びを怺ことなく賑やかな騒めき。、、、。<屍>の太陽は此れを焼き尽くすことが出来るのだろうか、徹底的に?

“To the mineral”end