観念奔逸的写真論 -1-

2002
oct.20

「使い物になるのか?」と思われたデジタルカメラも、さすがに半年にも満たないサイクルでのモデルチェンジでグングン良くなって、300万ピクセルでさえ手の届く価格になってきた。
まだまだ、銀塩カメラ(わざわざこう書かないといけないって、不自由な時代ですね!?)のレベルには及ばないにしても、環境にも優しいのだからどっか我慢しなきゃあね。でも、1000万画素オーバーも時間の問題でしょ。
デジタル登場以前でも悩んだカメラ選びは、家電メーカー等々の参入もありさらに複雑なことになり、目的を明確にしないとお金をドブに捨てることになる可能性は増々高い。おまけに、「旧型」であるだけに止まらず、すぐに「旧式」になってしまうのだから、なお始末が悪い。
不景気の折り、慎重にならない人は少ないとは思うけれども…。
いずれにせよ、カメラもコンピュータもインターネットも日進月歩の技術の最先端なのだから、使う側の感性や能力を問われる度合いも、同じように急増しているということを肝に命じておきたい。パブリックでもプライベートでも歯車になるのはもう避けたいですもんネ。

高級一眼レフタイプでレンズ交換もできるメガピクセル機も、今年中には各社から出揃いそう。個人的にはやはりカメラメーカーさんの製品でないと信用できないので、キヤノンさん、ニコンさん、ペンタックスさん、ミノルタさん、オリンパスさん、…、頑張って下さいね。

<見る、ということ>

所謂カメラ=写真術というものが発明されて160年余、御存知のように最初は絵画の代用品としてもてはやされたようだ。それまでは「実物」を肉眼で見るか絵画で見るかであった。時間的、経済的、あるいは好奇心から画家が写真を利用することもしばしばで、ドガなどはカメラ的視覚を絵画に採り入れるようになる。
うつろう現実の瞬間瞬間を正確に、且つ瞬時に切り取れる写真、所謂カメラ的パースペクティヴ等々、「見る」ことのプロフェッショナルであった当時の画家達が大きなショックを受けたことは周知の事実である。同時に、写真の登場が絵画の流れを大きく変えてしまったことも確かであろう。

コンピュータ・グラフィクスの登場で写真家達が受けたショックや喜び・楽しみ、広げられた表現の可能性といった最近の状況は、「歴史は繰り返す」を実証するようである。160年前の画家達がそうであったように、この2〜3年の写真家やグラフィック・デザイナーという人々も、新技術に飛びつく者と拒否する者、可能性を見た者と危機感を持った者とに分かれた。
二度目の繰り返しが「茶番」にならない様に、とは、願望であると同時に戒めでもある。
そして、言うまでもなく私は飛びつき喜んだ側だ。

1990年代初頭、価格的に外車かMacか?という選択肢が成り立った時代である。
カラー写真を手許で自在に処理するなんて、夢のまた夢であったし、Mac以上のコンピュータなんて“フェラーリ”と“ポルシェ”が同時に買えるほどもしたのだから………MacとPhotoshopの存在を知った時は、ベルリンの壁の崩壊と同じくらい驚いたものだ。
それが、あれよあれよという間に処理速度は倍々々になり、価格は半々々になり、PowerMacからG3へ、さらにこんなことを書いている間にヴェロシティなんちゃら搭載のG4まで登場した。コスト対パフォーマンスはきっと、とんでもなグラフになるのだろう。
7年半使ったQuadra950は97年12月にメインMacの座を退き、現在のメインはパワーMacintosh9600/350から、あっという間にG4へ。
これは何とQuadraに比べるとフォトショップ処理速度は数10倍以上で、数十分かかっていた処理が数十秒で出来てしまい、最初のうちは何か追い立てられているような気さえしていたものである。

本題に戻そう。
「見る」ため、あるいは「残す」ために写真は撮られるわけであるが、機械のフレームで現実をトリミングするということはかえって撮影者が見えていなかったり、思ってもいなかったことが写ってしまうという事態を惹き起こす。これはまた逆に、見てなくても思ってなくても容赦なく写真は出来上がってしまうということを意味するわけで、これが写真ならではの凄いところ、醍醐味であると同時に大きなウィークポイントにもなっているように思う。
「見る」ことと「思う」ことを除けば「シャッターボタンを押す」ことしか写真には許されていない。そこで、「機械」たちが加速度的に進化している中で、あらためて「見る」ということにこだわってみたいと思う。

私は、人間の五感の中で「視覚」が最も優れたものだと思っている。
理由は簡単で、「眼」にだけは「蓋」が付いている、ということだ。見たくないときには頑張って目蓋を閉じるのである。でなければ、見えてしまうのだ。だが、実はこの見えてしまう、ということが癖物であって、我々は「すべてが見えている」と思い込んでいるようだ。実のところ、ここに大きな落し穴が開いている。
通常我々が見ているのは「全て」ではなく、「見たい物」或は「見たくない物」のどちらかであって、部分部分でしか見えてはいない、ということをきちんと理解しておく必要がある。このことは写真を撮るときに限らず、日常生活についても言えることだ。まして写真を撮るときとなると、なお一層の努力と注意が必要だ。
まえに言ったとおり、「見ること」しか写真には残っていないのだから。写真にとっての九割以上が「見ること」であると言っても決して言い過ぎではないだろう。
思ったような写真が撮れないのは、実はここに最大の理由があると思う。何となれば、カメラは「全て」を見ているのだから―レンズやフィルムの限界があるにせよ。
木村伊兵衛が凄いのは写真家自らがカメラになりきっていたからだ。カメラが身体の一部、或は、眼の延長になるどころか、身体がカメラになってしまっていたのだ。まあ、凡人はなかなかそこまで到達できないのであるが…。
が、少なくともカメラという物は「眼」の延長である。

我々はおおむね、もっとよく「見る」ためにカメラという機械を持つのである――記念写真というのは少し違うところもあるかも知れないが。
写真というのは、基本的には我々の「見たい」という欲求を満たすための手段である。だから、この「見たい」という欲求を満たしてくれない写真は「つまらない写真」なのであり、「撮る人」が「見ること」を怠った結果である。「撮る人」がきちんと「見て」くれた写真はよい写真である、と断言してしまおう。
レンズがどうとかカメラがこうとか、フィルムがああだのモデルがどうだのなどというのは本末転倒、枝葉であって、幹をなすのは「撮る人」がいかに「見た」か、という行為そのものだと思う。
とはいっても、撮影現場では機材に助けられることもあればモデルに助けられることもあるし、デザイナーさんにも助けてもらえる。
が、「運」まで入れてそれも実力である…。
などと怠けないように頑張らなくっちゃ。