どぶねずみの歌


 街道沿いにむしろを敷いて乾燥芋がほしてあるとつまんで食いながら、夜までかかって立川へ着いた。疲れていたが、同時に満足感も深かったのをはっきり記憶している。おれはこんなふうに生きるのだという自覚でもあった。相変らず、こんなふうにと思うその内容は不鮮明なのだが、自分なりにはこんなふうとは何かわかったつもりの満足である。「道標のない地帯」とは別の、一冊全体が無題の詩集というか、辻潤の「阿呆旋律」を真似た箴言集というか、そんなもののなかに、当時ぼくはこう記した。
<道徳とか法律とか、そんなものは必要な奴だけが勝手に作って勝手に守れ。>
 尺八を吹いて門付けして歩くという辻潤が、彼の思想の深淵にかかわりなくぼくの偶像になっていた。そして西山さんは、辻潤の高弟であることで羨望にたえぬ人であった。
 年少のぼくには多くを語らぬ兄だったが、彼もまた、自分をどのようにか変形したい欲求が強かったのは、体質的に酒を受けつけぬ彼のそのころの句を一つ見ればわかる。
 焼酎二杯胃の腑ねじれけり

(42p)

 雑誌をやろう、と兄がいい出したのは、十月になってからだったろう。
 西山さんの「すべてはながる」を承継する心構えを基底に置いて、同人制度はとるがその内実は維持会員風なものにとどめ、力点を同人外の、敬愛する人々の寄稿に仰ぎたいというのが二人の一致した結論であった。誌名は黒色を意味するブラックをひとひねりして万葉仮名で「武良徒久」とし、「黒色または散策」を傍題することにきまった。
 ____略____
 
 ――「ぶらつく」は何等文学的思想的意図(野心)を有ってするものではない。去りては幻夢の如き、吾等が青春の回想と友情の追憶を豊饒ならしめんが念願に外ならざる――「発刊のために」という趣意書のようなものへ、兄はこう書いている。いま読めば、「人生劇場」的な調子が強いが、しかしこの底には、思想と恋愛の二重の傷手を受けていた兄の再生への喘ぎがあるとぼくは思う。
 三里塚の隠棲を続けていた木村荘太先生から、ぼくらのこんな発足への賛意とともに、戦中の辻潤の死が書き送られたのは十月二十日であった。この手紙で、荘太を艸太と改められたことも知らされた。
 ついで十月二十六日に上京した兄は、石川三四郎先生と西山さんを訪ね、ここでも辻潤の死を教えられて帰った。
 ひそかにぼくらが願ったのは、西山さんを通じて、ぼくらの雑誌へ辻潤の執筆を実現したいことだったが、もうどうしようもない始末であった。
「武良徒久―黒色または散策」創刊号は昭和二十年十一月三十日付で出た。

(117p)

 世の中の一方には、というより世の中の大部分は、治安維持法撤廃、政治犯釈放、日本共産党結成などを顕著な指標としてめまぐるしい転変であった。ぼくの関心は当然のようにそれらへも向いていた。「辻さんの願望する如くに、日本社会は辻さんを生かしておきはしなかった」という西山さんの悲しみは、ぼくにとっては、ぼくの欲する生き方で生きられる日本社会をという具合の、変化を伴って理解された。おれは海軍刑務所の水風呂や駆足やバッターに耐えて生きてきたのだという自負心もあった。

(122p)

 どこへ行けばよいのか、見当もつかず、以前の自分に、この図書館からはじまった、同様にひどく“純情”な恋があったのを思い出していた。そして、今度は、はじまりではなく終りなのだなと納得した。
 こんな場合……ぼくはそれでも考えた。
 辻潤がいたらどうしろというだろう?そしてすぐやめた。こんな場合に他人の考えを頼ろうとすること自体、もっとも辻潤から遠いのだと思ったのである。
 行きつくところまで行けばよいのだった。
 焼跡だらけの千葉の街を歩いていると、至極感傷的に、中学のころが偲ばれた。
 ――泣ける身も顔じゃ笑う
 それが男というものさ
 歌までが唇によみがえる。
 しかし、ぼくの表情はおそらく笑っていなかったに相違ない。歪んで、ひしゃげて、醜い顔だったろう。
 上野、いやノガミへ行こうとぼくはきめた。
 どうやらあの汚れきった雑踏が、自分を招き寄せているように思えた。よみがえってくる歌の文句が、状況に即きすぎていた。
 ――ああ 銅鑼が鳴る 今日の出船
 さらば あの娘の面影よ

(236p)

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どぶねずみ
寺島珠雄、最初の総括。
寺島さんの原点が分かります。