釜ヶ崎入門記


 大阪へきて自由労働者ぐらしにはいってから、六月のつゆのほかに、菜たねつゆというのがあることを知り、さらに寒つゆというのを知った。釜ヶ崎の自由労働者として一人前と認められるには、つゆ時と年末年始と、極端な労働力不需要期である二つのシーズンを、飯場などへ逃避せずに過ごすのが関門になっている。もちろん、どこからも一人前の認定証がくるわけではないが、確かに適切な感はある。
 飯場では食と住とがまがりなりにも保証され、雨が幾日降り続こうと大丈夫である。釜ヶ崎にいればそうはいかない。保証するもしないも自分で、甲斐性(かいしょう)という言葉が、実にぴったりとここに現れてくる。
 釜ヶ崎に存在する自由というのは、こんなぐあいの、自己の強靱さのみを支えとした自由なので、憲法などをよりどころに主張される自由とは大いにちがう。
 労働者の組織化を進めようとするさまざまな運動が釜ヶ崎にもあるが、港湾関係以外ではまだみるべき伸長がない。酒をのむな、貯金をしよう、道ばたに寝るな――こんな種類の教訓的標語が、釜ヶ崎のあちこちに無数といいたいほど見られる。だが立ち飲み屋はふえる一方だし、パチンコ屋は繁盛し、ギャンブル新聞はよく売れ、公園に、路傍にあかい顔で(時には大小便をたれ流し、また雨にぬれながら)眠る者はあとをたたない。まさに健康で文化的な生活の正反対である。これを自由といえば、おそらくただちに自堕落にすぎると叱責が起ってくるだろうから、少しもってまわって自堕落にする自由といっておこうか。
 地縁を脱し血縁を離れ、住所不定に、まったく無名の一人間として(ドヤの宿帳にも思いつきの名が多く、就労には名の必要がない)生きることが、真に悲哀であるのなら、釜ヶ崎は放って置いても滅びるはずなのに、不思議に一定の人口を擁してむしろ流入は増加傾向にある。ぼくはこの現実を社会体制の産物と割り切って考えることができない。いや割り切ったらまちがいだと思っている。釜ヶ崎でひとりの労働者として生きながら労働者の一般的な様態からはみ出して、文学とか詩とかにかかずらい、言あげを試みるのは、そのへんの解明を、個別に具体的におこないたいからである。
 社会体制がどう変化、あるいは変革されようと、人間はいつも“釜ヶ崎”的な何かを内部にいだいているのではなかろうか。その何かに忠実であるかないかは、別にいえば与えられる種々の拘束を受容するか拒否するかだが、多くは受容の側に生きて、生きること自体の軋りを法や道徳を借りてわが耳から遠ざけている。
 去年の秋、赤軍派と呼ばれる学生たちが二つの交番を襲撃した事件の直後、若い詩人がぼくに手紙をくれた。その手紙に、次の一節がふくまれていたのがぼくには忘れられない。
 ――革命が成立して、ともかくも労働者がバンザイを叫ぶ時が、もしあるとすれば、その時は、私はヤケ酒をあおっている時です――
 ここに予見されたむなしさは、自分の思念を言葉にすることなくいま釜ヶ崎に生きている自由労働者が、いわば本能的に察知しているところと無縁ではないはずである。
 労働とは本来、からだを使い汗を流して働くことであった。しかし、現状はまさに本来の労働者である者が、“労務者”という別の言葉に差別されている。釜ヶ崎の労働者は、屋外でよごれのはげしい肉体労働をし、労働の成果は道路やビルや学校や高層住宅など、社会的に有用なものであるにもかかわらず、その働き自体がむしろ嫌悪の目でながめられる。釜ヶ崎の自由というのは、そうした嫌悪されること、差別されること、侮蔑されることを代償として得られる自由で、無名のまま死んで行く自由にまで及ぶ。
 
 ワガ膝ニ頬ズリシテ泣ケ/オノレガ死ヌ時オノレノ涙ハ間ニアワヌ
                             (「伝道」)
 
 以前ぼくはこんな部分のある詩を書いた。ぼくはすでに釜ヶ崎労働者らしからぬ方角へはみ出してしまった。今さら引っこめるわけにはいかないので、逆にもっとはみ出したところに自分を置くしかないようである。だが、生活の外見にわずかの変化があったとしても、ぼくのなかでの“釜ヶ崎”は、核である比重を高めこそすれ、決して消滅はしないだろう。
 清潔で単純に生きたいといったのは辻潤だが、現代社会でその願いがもっとも具現されている場所としての釜ヶ崎をぼくは自分の内と外でこれからも大切にしたい。

---初出/1970.6.16読売新聞(大阪)夕刊/原題「釜ヶ崎に生きる」

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書かれた時から見ると情況は激変しているが、
寺島珠雄は変わり得ない本質を見抜いていた。