「あなたの悩みはこうです。」と定義づければ「いいえ、悩みと言うより苦痛なのです。」
「ではあなたの苦痛はこういうことなのですか」。
「いいえ、それとも違うような、、、。」
「あなたの苦悩は理解しました。」
「苦悩とも言えませんが、、、。」
 堂々めぐりの把握のラビリンス。この精神の存在様式など、単に甘ったれた孤独の一類型にしかすぎない。にもかかわらず新しい言語定義を試みて、メディアは「ブロークン・ウーマン」と誠しやかに名付けたりしている。 現在の精神分析の思想も知らないような私が言うのも僭越なのかもしれないが、自我が肥大化するとは、孤独が単純に理性的根拠無しに拡張してしまうことをも意味する。誰もが同じ考え方をしているという自己と他者の同一視である。
 これは外部の<世界>に対してきちっと渡り合うことを極度に避けることから齎されるか、「自分だけが、、、」と<個>を無限定に実体的に主張し、それを受け入れる世界が存在すれば、かなりの期間を内位的同位体に於いて獲得することになる。此れが公転の様相。理性的根拠によって確定されない間延びした自我の様態。
 此れらの自我の肥大化を裏づけるのが、現代消費社会の、消費の膨張し嵩張った、主張無き主張社会である。無限定・無際限の主張とは<好きー嫌い>の感性的措定を無媒介に社会化、ないしは政治化してしまう社会的無前提の「主張」である。あれが好き此れは嫌いの感性的判断によってダイレクトに<消費>を主張してこの主張が容易に認められ「社会」的にすくい取られれば、其処に出来上がるのはアイデンティティの内示が希薄な存在感の無い<私>が出来上がるだろう。この繰り返しが社会として認知される。そして、超自我には制度の上に立つ<幻想>があることも忘れてはいけない。
 この<幻想>は無意識に社会的前提となるものである。この幻想が戦後民主主義の思想によって培養された履き違えた自由である。此れは無意識に私たちの間接的な意志に内在し束縛感の無い<空気>に近いものである。ここに消費的<主張>を「個性」という擬制によって肯定していく。他者との鍛えられ、陶冶される環境さえ入手できない個性。現象としては個性がありながら其の思考パターンは極めて類似性を持つことになる。これらの自転と公転の世界では言語の<内位>に対する限定力を、無視ないしは対立として演じられる。
 しかしながら其処に擬制的もしくは<制度>としての言語が、介在されなければ、不明と無名の漆黒に無限である実体に名づけるものが存在しなければ、不明の実体は自らに内実ある<個性>のうちに、リバイアサンを掲載してしまうことになる。獰猛なリバイアサンであればそれは自らの正当な定義と定位置を求め、無政府状態の異空領域に進入し始め、その住人を喰いはじめる、蕩尽の限りを尽くして。その様想はゴヤの「子供を食う<親>」の絵の前で静謐に錯乱する<私たち>と同意、同位相にある。
 この絵の<親の表情>に向かうと私たちは驚愕と悲嘆が対角線に交差し、こういう情況も存立するのだと為す術もなく居直り、放擲の構図をとる不徳の傍観に終わる、二重の諦念観念と感性の恣意、に於いて立ち尽くす。焼け尽くす<孤独>と<倫理>の相剋に固有存在は、抜き差しならぬところで向き合い、対蹠することになる。仮に住人の自我が確立された<自我>で在れば、己の怪物に立向い向こう見ずにも戦うことが出来る。己の戦いは言語に拠った限定することによる闘争と、並びにゴヤの絵の前で立ち尽くす<不徳の背信><背信の不徳>の放擲の視線を持たねばならない。此のように秀でた表現はその作者の意図を越えて、浄化・事情化した<場>で<私たち>の採集出来る立脚点を提供もするのである。
 もしくは、其処の<内部>に怪物さえも蠢かないかもしれない、存在しないのかもしれない。どっかりとした空虚が、底無しの無限の漆黒の<内位>のブラックホールの伽藍が、無脈絡の無政府状態に自存している。ここに<元型>としての「曼荼羅」を視ては正統にはならないのだろうか、非道となるのだろうか。ユング的な分析をしていくと其処に構造主義以前の「構造主義」が確かめられる。或いは先験的な球形へのユングによる<愛>を感じてしまうのだ。種々の雑多な概念を排除して<元型>の出現と捉えることにより、被分析対象の精神構造を異空の領域にまで放擲、開放し、球形的な安らかな安定の思考に、心理に牧歌的となる<場>に開放していくところがある。その様想に、被分析者は安んじた心理的安定を得る、底無しの漆黒に塗りたくられた<内位>のブラックホールの伽藍を抱え込んだままに、、、。