決闘写真対角戦 text:解 竜馬
foto:武内祐樹

2.In & Out

 In & Out、その間にある存在としては明確でありながら、その内容の不透明、複雑であるともに奇形でもあり、平板でもある個人、それは、伝達されるに堪え難いほどに、伝えるに困難な実体。70年に「写真家」中平卓馬は『来たるべき言葉のために』という写真集で文章的アジテーションの活動をしていった。写真家仲間の間では、各作家個人の違いにより程度の差はあるだろうが、今では神格化され、神話としてまで、語られている中平。森山大道、高梨豊に比べて、写真の技量は落ちる中平。なぜ、今ごろ中平なのか。

 社会は「写真」に分別を与え、「写真」を眺める人に向かって絶えず炸裂しようとする「写真」の狂気を沈めようと努める。その目的のために、社会は二つの方法を用意する。ひとつは「写真」を芸術に仕立てる方法である、―(中略)―。そこで芸術家は、絵画の修辞法やその昇華された提示法を取り入れ、飽くまでも芸術家と張り合おうとする。―(中略)―
 「写真」に分別を与えるもう一つの方法は、「写真」を一般化し、大衆化し、平凡なものにすることによって、ついには「写真」の前に他のいかなる映像も存在しなくなるようにする方法である。そうなれば、「写真」を外の映像との関連において特徴づけ、その特殊性、その異常さ、その狂気を主張できなくなる。

『明るい部屋』ロラン・バルト(註1)

 ここにあるのは、写真を分類し、スタティックに視ていこうとす る、ごく詰まらない分類だ。おそらくバルトは、ここで写真を狂気 と定義することで、社会性のアンチテーゼとして写真を踏まえたい のだろう、あるいは、社会性に纏め上げらた分別にもなりうるとし たいのだろう。写真が社会に対するアンチテーゼを持ちうるか、社 会の部品になるかどうかなど、あまりに実体的にすぎる発想だ。
 写真はそこにゲリラでもあるという方法論も成立し、スナップを とるに有効だという、日常的な活動にもある現在形の表現できる機械の生み出す、表現である。
ドゥルーズ・ガタリ(註2)流のきざ な言い方で言ってみれば、ツリーでなく、リゾームの表現媒体であ り、諸機関であるともいえる、現在的なドラスチックなカメラとい う機械を媒介した表現である。また身体論の観点から、述べてもい ける、自由と擬制の制度の運動にも取り込まれやすい柔和なメディ アでもあるだろう。芸術など認識と作家本人の姿勢と技量とによっ て、表現されるに違いない誰にもできるが、他者の読解が無ければ ほとんど意味のない、無意義に限りなく近いものでしかない。そう であるから、生という無意義でもあり、それの無い日常など無いの だから非日常の『芸術』にも結び付きやすくもあり、鑑賞などとい う非日常的な高踏なスタティックな趣味も生まれるのだ。

 また観点を運動という静の中の動、動の中の静として、人間を運 動的に捕らえるなら、芸術は運動的なものであり、呼び戻された未 来であり、過去を前向きに視ていく運動の動態的視力と静的聴力の 中心としても言える。そうであるから、現代の諸作家の次作を期待 したり、それに裏切られたりもし、いわゆる批評眼がついてきもし、 それに固執もしてみたりする、以前まともに視れなかった『芸術』 がまともに見えてきたりする。極めて人間臭い動きが、芸術という 表現にスタティックに媒介されながらも、ドラスティックに展開さ れていくという展開の悲劇と喜劇の運動劇場でもある。そうである から、運動性の中に認識の向こうの本質が見え隠れしていくのであ り、認識の運動構造にも、好き嫌いを含めて充足感と満たされた時 間が宿るとも言えるのではなかろうか。
 なぜ、ここにロラン・バルトを引用したのか、そして批判したの か、その根拠には二つある。一つは、今現在の批評家、こんな者た ちが実体としていることの不思議さもあるが、それはここでは議論 しない。彼らの引用に、寄り掛かり具合が気にかかるからである。
 無論、引用全てを否定するのではない。そこにたとえドゥルーズ・ ガタリが引用されていたにしろ、彼らの思考の「質」を横取りした 思考が、彼ら批評家なるものに展開されていないからである。まる で引用のモザイクであり、己の思考のダイナミズムを放棄した、批 評的現在と自らの思考がない、と思えるからだ。
 そして二つ目に、中平の思考の嗜好として、この傾向が見え隠れ しており、引用された『思想家』の仲間にロラン・バルトも入って しまうのではないかという危惧からである。こちらとしては、中平 のファンではなく、彼の文章的行為をすべて、追い込んでいくもの でもない。だから、彼が、記憶喪失に77年ごろ陥った以前に、ロラ ン・バルトのこの言説を読んだかどうか、また引用しているかどう かを知らない。しかし、『なぜ、植物図鑑か』を読むかぎりでは、 彼が肯定的に引用したくなる質のものではないだろうか、その想い が、こちらとしては、批判しておきたくなった直接の動機だ。こち らとして中平の魅力は、そこにはない。彼が持ちえた、思考−心構 えという姿勢−とそこにある原風景が、それを媒介した表現が引き
つける、今もって引きつける。

    (註1)
     構造主義者とすると多くのファンから非難を浴びるかも。
    70年代にはかなり売れた思想家のひとり。「テクストの快楽」「零度のエクリチュール」「象徴の帝国」など多数。
    分析力には、定評がある、哲学者。

    (註2)
     ポスト構造主義者。
     ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ。
    「アンチオイディプス」「千のプラトー」などの著書がある。ツリー(系統樹)的発想、制度や常識など、会社の部長課長などの価値体系を樹木のツリーにたとえ、リゾーム(根茎・地下茎)−ツリーに対するアンチであり、竹やシダ類などの根のように育成変化し予測不可能の方向に根を張るような動き。また、ツリーを支える相互理解や運動性のある思考や感性が現代のツリー的発想に対する課題だとした。