In & Out-2
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彼が活躍し、傷ついた70年という時代。 この時期の「物語」を思想?として眺める、風景として眺める、それぐらいの必要と余地があるのではないかということ、それによって現代の風化した矩形の情況が今までとは違った風景、私たち個人の生活という個人的な活動が、傷つき跛行しながらももっと色付いたときめきのあるものになるのではないか。それともまったく逆に私たちの生活の活動が、時代性に引き裂かれた空虚感と疲れ疲弊したものになるのではと想いたいからだろうか。あるいは、今の時代と過去の時代との対比により、一層いま現在を懐深く読み解きたいからだろうか。それら全てにおいて望んでいるのだろうか。 |
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敗北の「政治の季節」といっても、そのように形容された時代を体現していたのは極く一部の者たちによってであり、私を含めて一般のものには、得体のしれない空気が、名づけることがむづかしいが、退嬰的ではあるがほの暗くとも熱い屈折した空気があった。しかし、その空気を私たちは、映像によってその時代の象徴する記録としての映像によって、かろうじてだが再現できる。その時代的表現のなかに、記録映画と記録写真がある。 この中平の写真集でありながらも、その特性までを否定するような思い詰めた題名はどこに根拠をおくのか、「まず確からしさの世界を棄てよ」とした有名な、そして、写真に対して投げやりなアジテートは、何を目論んだそれであるのだろうか?問いを自分側ではなく、向こう側に問い掛ける、そこにどのような答えも期待してはならない。問い掛ける相手の実態はなく、不特定多数の返答の無い空しさだけが残るアジテート。写真が記録だとアジテートしながら、記録だと弁えよというのではなく、写真の限界をその確定をアジテートし、限界性を求めて、時代性をその象徴性という俯瞰性を自らと引き換えつつ、身を削りながらも提示していくその自分側の姿勢。 |
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「プロヴォーク」というその名にふさわしい扇動する同人誌によって「まずたしからしさの世界を捨てよ」と文章により、写真は記録であると言う、「思想のための挑発的資料」としての写真をまずは記録として把握せよと扇動・挑発した。その写真を使わない文章的アジテートは、一方で報道写真の持つ、伝えようとすること自体が帯びる傲慢、写真を報道という複雑性に絡む事実に引き換えることができるかのような慢心、これに基づく非記録的行為、それを排除する。その一方で、たかだか機械による複写を芸術写真として芸術の名を騙り、この偽りを乗り切ろうとする不遜を解体することを意図していたと思える。西井一夫(註4)が言うように、カメラは見る機械であると、同時に撮影者を視ることに捕縛していく、強い矛盾を抱き込んだ魔術的機械だ。 カメラという機械は、凝視する誘惑を持っている。 |
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