Snap Shot 19

小野十三郎をご存知だろうか。
写真とは無関係だが、私は小野十三郎を世界でも屈指の詩人の一人だと思っている。
ふと気がついたのだが、この詩人の言う「短歌的抒情の否定」と、中平卓馬の「なぜ植物図鑑か?」及び「撮影行為の自己変革に関して」は通底しているのではないか。

「感傷的誇張が詩における本来の抒情性と相去ること遠いことは言うまでもない。いかなる意味においても、それらはもはや詩とはなんらかかわるところはない。安っぽい感激に自ら陶然としているものや、風流の手すさびは論外としても、感動から言葉へとつねに速やかに楽々と移ってゆける能力もまた詩人の場合は警戒を要する。詩人にはむしろ感動を制する能力の方が大切なのである。人間の頭には延髄と称するものがあるが、脳みそと背骨の中間に位して幾多の貴重な神経中枢をそこに集中させている。詩人は誰よりも強靱な延髄を持たなければならない。後頭部にしまりがないといい詩は生まれないのだ。」
「認識を欠いた抒情は時の経過と共に次第に堕落し俗化する。しかもいけないことには往々にして、このゆきつくところが『純粋』ということとはき違えられるのである。」
(“より高度の抒情を”『多頭の蛇』1949真善美社刊)
「風景とはそこに私たちの人間的思考が投影することによって思想となるのではない。風景は又単なるイズムに規定されるような思想を決して許容しない。古いヒューマニズムの残照が自然を照射するわけはないのだ。私たちは風景に直面しているように思っていたが、実は自分の小さな観念の影法師を見ていたのである。」(『詩論』31「全集」版より)

「私にとってもはや〈イメージ〉は乗り越えられるべき対象である。私から発し、一方的に世界へ到達するものと仮定され、そのことによって世界を歪曲し、世界を私の思い通りに染めあげるこのイメージは、いま、私の中で否定される。世界と私は、一方的な私の視線によって繋がっているのではない。」
「おそらくそのような擬人化、あるいは情緒化を徹底的に排除した時、事物は事物として凝視した果てに、私の視線の凝集をはじきかえして事物が真の幻想性を帯びて顕現してくるのだ。そこにゆきつかぬところでの幻想、それはただ視線の脆弱さを証すにすぎず、此岸と彼岸の混淆、またそこから生まれるふやけた情緒であるにすぎないのだ。幻想と情緒はむろんのこと二律背反である。幻想性とは、私の視線をはじき返して起ち上がる事物に所属する。だが一方、情緒とは見ることを裏切り、おのれの内面をミスティファイするところから生まれる。」(『なぜ、植物図鑑か』)

詩の可能性を切り拓いた小野十三郎、写真の可能性を追求し続ける中平卓馬。
未だに、正当に理解、或いは、評価されているとは言い難いところまでもが似ているようだ。

詩論が妨害する

ふれたいことをかくして
確実にふれる作業に
詩のいとなみは似ている。
ふれたいことが
はじめから見え透いている詩は
出来が悪い。
そんな詩を、わたしはたくさん書いている。
この詩にある言葉のながれはどうだろう。
いつも通りだと思われたくないなァ。
ながれをたち切ったところで
ふいに、いままでになかった発見がある
そんな詩を書きたいが
それは空しいねがいかもしれない。
作品と詩論を併せ提出している者の前にある落し穴に
わたしは気づいているが
気づくのは、たいていおそい。
紙屑みたいな詩を横に積み重ねて
きょうも
終った。

(詩集『いまいるところ』1989浮游社刊)

_2003.10.13