Snap Shot 21

お天気によって風景が変わるように、カメラによって世界の見え方が変わります。
パナソニックのデジカメを初めて持ち出した頃、見やすい液晶画面より小さな見にくい光学ファインダーを、無理して覗いて撮っていました。
すでに、その頃から自覚はあったのですが、結局、フレーミングがアバウトになり、撮ったままの写真に力が感じられなくなりました。
見にくい光学ファインダーをやめて、腕を伸ばして液晶画面を両目で見るのがチビ・デジカメの「現代風」作法なのでしょうが、空気感や距離感という「関係性」への意識が希薄になるように思えます。

眼球修理人まぼろしの犯罪
 眼球修理人の話によると、人間の二つの目にはそれぞれ違った役目がある。一つの目で他人を見、べつの目で自分を見るという学説もあれば、一つの目で「見出し」、べつの目で「見捨てる」という学説もある。
 いずれにせよ、この両目の平衡が、悪しき調和を統べているとわかったら、草刈り鎌でもって片方の目をえぐり出さなければならない。そして自分を見るための「見出す」目は、血を拭いたあと油のにじんだ黒布でピカピカになるまでよく磨き、暗黒の応接間のテーブルの上にでも、飾っておくのがいいのさ。私は残る片目で、限りなく世界を見捨てながら、シベリアまでも旅に出てやろう。私の残された目よ。見捨てるために限りなく他人を見つめ、そのはてしない他人の故郷の夕焼雲の上に、
 休息のための瞼とざして過ぎる燕の数をかぞえよ。
 新しい闇の成立つ快さに
 やさしい目かくしの時代が過ぎてゆく。
_『にっぽん劇場写真帖』(森山大道/寺山修司)1968刊
_「芝居小屋の中で観た地獄の四幕」第三の歌

この「学説」を信じるとすれば、片方の目でしっかりとファインダーを覗く、一眼レフの作法こそがーーー「見出す」か「見捨てる」かは、さておきーーー撮影行為には重要であるように思えます。

_2003.10.26