Snap Shot 29

このサイトのトップに掲げている「何よりもまず、快適が望ましい」は、『まずたしからしさの世界をすてろ』からの御都合主義的改竄です。
商業主義と自己とのアンビバレンツからの逃避として、保身的補完物として写真を捉えようとしたものです。
しかし、日常的写真行為を取り戻した今、「見える」ことと「見たい」こととの峻別、<世界><私><写真>への視想へ復帰した今、このバブル期に書いた言説とのギャップは、日増しに広がっていくばかりです。

コマーシャル・フォトの世界では、嘘か真かは問題ではありません。そこに写された商品が売れるか売れないかだけが問題です。何が写っているかよりも、どれだけ売れたかが評価の基準です。今や、報道写真の大部分でさえもが同じ基準で計られています。カメラマンの映像論や世界観、そのスタンスとは無関係に、政治的経済的諸関係のみが絶対的な力を持ちます。
逆から見れば、「たしからしさ」を「押し付ける」ことこそが商業写真のテーゼです。「これを持てば、幸福になれる」、「ここに行けば、青い鳥に逢える」という幻想を降り撒くことが使命です。
そこでの写真は、芸術性も記録性も剥奪されています。写真とは何か、と問うことは留保されているのではなく、思考停止こそが求められています。撮る側と見る側が共犯として、双方に思考停止を強要します。
あれから30年(“PROVOKE”以後)、見事に商業化された世界は、悲惨な戦場の写真であっても、それがまるで新製品の写真を見るような感覚をしか齎さなくなりました。

「この時代を幻影の時代と言い、イメージの時代と呼ぶ。だがそれはわれわれの視角の問題にかかわるだけではない。イメージはわれわれの視角の制度化、組織化を通じて、さらにわれわれの生そのものを制度化し、組織化することを最終的な目的にしている。もはやわれわれはイメージ化されたわれわれ自身を生きているのだ。」
(「ディスカバー・ジャパン」中平卓馬/『なぜ植物図鑑か』所収)

「このような時代にあってそれでは写真家は何をなすべきか。
この問いに答えるにはさらに多くを語らねばならないだろう。ただおそらくそれは制度的な視角からの逸脱はいかに可能かという、より具体的より実践的な問いとしてぼくの中に在る。それはまた映像をみずからの方法とするすべての者に対してむけられたものでもあるだろう。」
(「制度としての視角からの逸脱は可能か」同上)

最早、多くを語る必要などないのかも知れません。
「血色よく死んでいる」時代に何を語ろうと無駄かも知れません。
中平卓馬の「原点復帰」は、何万語を費やしても語れないであろうことを、語り切ろうとする「より具体的な実践的な問い」としての行為であると思います。

_2003.11.30