視的生活
-062-
−西三国−
西三国

2004
2月

西三国



2004
9月

西三国

西三国

2003年9月20日発売の『アサヒカメラ』10月号、「敢えて望んだ斬新熟視」で中平卓馬と再会して、ちょうど1年が経った。
平均すれば一日に40カットぐらい。まだまだ、シャッターを押し切れない場面が多々ある。2GBとか4GBとかの巨大なCFカードを入れるだけで解消できるようには思えない。

「斬新熟視」中の写真そのものから受けた衝撃は凄まじかったが、それと同時に、長い間放っておいてしまっていた様々なコトについても、考え始める契機となった。
しばらく遠ざかっていた、ロラン・バルトやベンヤミン、西井一夫の読み直し、アジェ、クライン、奈良原一高の見直しは勿論、多くの写真展へも足を運ぶようになった。叶うなら、それより先、昨年4月に見てしまった森山大道展を、もう一度見てみたいが…。

大阪芸大で3期に分けて展示されているH.C=ブレッソン展の「第1期」を見た。
恰も計算されたような、演出されたような「決定的瞬間」との無数の出逢い。
森山や中平の方向性、問題意識、表現とは全く異なるとはいえ、私自身の中では、写真に向かい合う姿勢において、彼等は同列である。それは、「写真は記録である」、「すべての写真は等価である」という認識から来るものなのであろう。

今回の写真は、近所歩きの途中で見てしまった「破壊」の現場。
藤田省三いうところの「人工的な解体工事の集合体」の先っぽだ。
単に、「記録しておかなければ」という一義で、何度か足を運んだ。
写真をどうのこうの言うつもりも、そこに意味を付加しようとも思ってはいないが、この「破壊」のあり様があまりにも悲しいことのように思われた。
現代資本主義は、この惨状を「拡大再生産」、或いは、「経済成長」と賛美する。

_2004.9.28