視的生活
-071-
北新地

梅新東

すっかり間隔があいてしまった。
忙しかったとはいえ、己の時間の使い方の拙さとキャパシティの無さには、いつもながら辟易とする。
そういう中で、昨年末に亡くなってしまったスーザン・ソンタグの言葉を反芻しながら写真を撮っている。

“だれもかつて写真を通して「醜」を発見したものはなく、多くは写真を通して「美」を発見してきた。カメラが社会のさまざまな儀式の証拠を整えるとか、記録をとるとかに使われる場合を除いては、人びとが写真を撮る気になるのはなにか美しいものを発見したいからである。”(「視覚のヒロイズム」冒頭/『写真論』晶文社刊)

彼女の死を契機に、読み直そうとして開いた最初のページだ。
私は、「美」を求めて写真しているわけではない、という顕在意識とは裏腹に、「美しい」光や陰に向けてシャッターを切っている自分が在ることに気付く。
反論しきれないことが、歯がゆくてどうしようもなく、このパラグラフを反芻しながら歩く。

“写真のもつ力は、通常の時間の流れがただちに取ってかわる吟味の瞬間に、写真がいつも開いているということである。この時間の凍結−−一枚一枚の写真の傲慢で痛烈な静止−−が美の新しい、より包括的な基準を産み出した。しかし切り離された瞬間に与えられるような真実はどれほどの意義があったり決定的なものであろうと、理解の要求とはきわめて限られた関係しかもっていない。写真についてなされたヒューマニストの主張が示唆するものとはちがって、カメラが現実をなにか美しいものに変えてしまう能力は、真実を伝達する手段としてはカメラは相対的に弱いことからきているのである。ヒューマニズムがフォルマリストの美の探求の正当化に代って、野心的なプロの写真家の支配的なイデオロギーなった理由は、それが写真の企図の底にある真実と美についての混乱を蔽っているということである。”(同上)

明らかに、私の頭は混乱している。
それでも撮り続けるのは、いったい何を求めてのことなのだろう…。

_2005.2.20