寺島珠雄をひとことで言うと…
※先着順、敬称は略させていただきました。
田村治芳
(弘隆社)
やさしいヤクザ。「ぼくは君の詩はほめないよ」とある人に面と向かって言ったのを横で聞いた。
寺島さんはすわって、立った相手を下からにらむようにして、こちらを向いた顔がにっと笑って、もうそっちの話はそれでおわっていた。地下鉄の階段を二段づつの昇り方、首がしゃんと立っていて剣道の型のようにみえた。ウン、人が斬れる。

寺田義隆 一度だけ寺島さんと一緒に飲ませていただいたことがあります。それは、東京でも大阪でもなく沖縄でのことでした。コザ(沖縄市)の民謡酒場『なんた浜』で、島唄に耳を傾けながらいろいろと興味深いお話しを聞いたはずなのですが、まさに南国の夢のごとく頭の中をすり抜けてしまいました。
今考えると全く罰当たりな話で、オリオンビールや泡盛をがぶがぶ飲んでいる場合ではなかったなあと、つい反省の方が先に来てしまいますね。

日野善太郎 「追憶と感傷の詩人」
    二十何年も前のことですが、
    「感傷のない詩なんてあるもんか」
    そう呟いて黙りこんでしまった彼の横顔が目の奥に
    残っています。

鈴木一子 寺島さんは、GOING MY WAY!
    目立たない処で親切で優しい
    人に弱味を見せない強い人
    不良少年と優等生が同居している人
    いつも変わらない安心出来た人

長谷川修児 寺島珠雄を一言でいうとなにごとにつけても誠実な人でありました。人に対しても、文学に対しても、自分に対してもこんなに誠実に向きあった人は稀でありましょう。

佐原光子 酒食の席で、とにかく、よくからかわれ、冷やかされました。でも、精神的ゆとりのもたらす遊び心が豊かで、まわりを和やかに開放して下さる方でした。別れてのち、温かい余韻を残しても下さいました。
「南天堂」の軽やかで、いきいきと、弾んだ語り口の文体に最後までぐいぐい引きつけられて、読み終えた時、胸にずしーんと錘がうまれてありました。垂直にあるそのおもりが時々ゆれるのは、又、又寺島さんのからかいなのか、励ましなのか 楽しんでいます。

山野治
昭和45年8月9日、暑い日の中を通信学園(旧鈴鹿海軍航空隊の建物が残っている)の中を見てまわった。錦米次郎とわたしと三人で、衛門、司令塔、水泳プール、飛行機格納庫等がそのまま残って利用されていた。寺島さんはなつかしいなアと目を、ギョロ目で、口許をゆるめて白い歯をのぞかせて笑顔で見ていた。あの時以来知りあって仲良くなった。
あれはいつだったか、海が見える宿で一夜をすごした。
翌日の朝は白い木蓮の花の咲く青少年の森を散歩した。世のしきたりにとらわれずに生きたいとそう考えながら、寺島さんには古風なところがあり、義理人情の情が深かった。わたしのところには手紙・ハガキが数多く残っております。その文の末尾にはいつも俳句でしめくくってあった。
芹やなずなのおひたしを、どんぶりにいっぱいこしらえてわたしは食べるので、そのつもりで寺島さんに送りとどけて文句を言われた。旬のものを小鉢に入れて少し上品にあじわう。そんなところをだいじにしていた。
おもったことをそのままに話しあうことが出来たんで、今頃は浜川弥と会って酒を飲んでいるだろう。そんな気がして思い出しています。
    落し水寺島浜川会えたかな

やまのすみれ  そうね・・・ それは・・・
 山も野もおおいつくして雪が降り なおも しんしんと
 降りつづく 近よりがたい きびしさの中で

 ちろちろとゆずいろの炎を作る いろりびの火
 とろけるように ちろちろと・・・
 そんなあたたかさの中で ゆっくりと心を
 とかしてゆける

 あの人は 私にとって
 そんな ゆきの日の いろり火のような
 きどらない優しさをもつ人でした。

石野覚 「この一枚のポストカードが欲しくてバラ売りしない絵ハガキセットをまた買ってしまった」とコメントされていた女性肖像画のハガキで寺島さんから近況だよりをもらったことがありました。
利かん気のみなぎる清らな若い女性。寺島さんの好きなタイプで恐らく似た女性に男として恋情を熱く抱いたことが昔あったか只今進行中なのかその辺は読む者の想像領域で男は云わぬものだの寺島さんでした。

村元武 権力を持たないように、行使せぬように生きた人。
人を強制して動かさない。
あれをしろこうやれと、抑圧的には言わない。
長とかにはならない、どころか肩書きを持とうとしない。
相手と同じ高さ(時には自分を少し低く。決して、高く、はなかった)に自分をおく。自分に厳しく生きるその姿から、誰もが権威、威厳を感じたと思うが、多分人はそのことを通じてどうすればいいかを判断して行動したし、希望に添おうと思ったし、ひいては自分の生き方を見直したりした。しかし望み通り動かなかったからどうだというのではなく、自分から離れていった。

久保田一 元来私には他人のことを《一言》でいい表すことなど無理だし、出来ないものだと思っているのです。でも、それを承知で“寺島珠雄”という人を《一言》でいい表すならば、寺島さんは《細やかな神経を持ったわがままな人》ということが出来ると思う。
無論、ここでいう《わがまま》の意味は《利己》ではなく、《自分の思いに忠実に生きる》ということですが、これは出来そうでなかなか出来ない。
そして、《細やかな神経》の方は気付いていることと思うが、鳥渡したエッセイでもその神経は遣われていて、お風呂屋の場所を説明するにも綿密且つ正確である。
遺作となった『南天堂―松岡虎王麿の大正・昭和』などはその集大成ということが出来るのではないだろうか。

山本薫 「ここには三桁の人間はいないんだから、みんな二桁の同世代なんだから一緒に話す権利はあるよ。」友人の家で初めて会った日の寺島さんの言葉。
お酒を飲んで大人が楽しくやってる横から子供達がワイワイ口を出して騒ぐので、何か私がたしなめるような事を言った時だった。作品を読んで、ヘエーたいへんむずかしい人だなあと思っていたので、この場のこの言葉には懐の温かさが、すうーっと感じられ肩が軽くなったようだった。

大月健 ニヒリストには二つのタイプがある。自信がないからニヒリストになる人間と、自信があるからニヒリストになる人間とに別れる。前者は私で、後者は寺島さんである。
この落差を年令が埋めてくれるのならば助かるのだが、ぼつぼつはじめて出会った寺島さんの年令に近づいてきているがその兆候は見られない。届かないから理想ということでは、寺島珠雄の姿容が私にとってふさわしいような気がする。

紫村美也 うそをつかない。他人にも自分にも。
他人につくうそは優しさだともいわれるが、寺島珠雄はうそをつかなくても優しくあれることを体現した。目からうろこ。
自分につくうそは無意識的自己防衛本能だ。寺島珠雄はつまり、本能を拒絶していたのである。気付いてから、ではどうやって自己を守っているか注意深く観察したことがある。
私が得た「なるほど」は飛ばして結論だけいえば「無闇に真似するのは危険」だと思った。


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